思想

postalkにおける二層構造について


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postalk(ポストーク)には二つの層があります。それは、カードの層とテキストの層です。そして、一方は「見えるもの」であり、他方は「見えないもの」です。今回はpostalkには二つの層を意識することで広がる可能性と開発する上での今後の指針について書いていきます。

目次

テキストとカードの二つの層

postalkはカードを作成し、並べ替えることができるツールであり、カードの層とはいつも操作している画面のことです。

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カードを作成すると同時にpostalkの裏側では書かれている内容やアップロードされた画像が保存されています。このテキストの集まりを「ドキュメント」として閲覧することもできます。

右上にあるドキュメントアイコンをクリックし、Copy as .md ボタンを押すことでテキストがコピーされ、どこかに貼り付けると見ることができます。

カードの左上に薄く数字が書いてありますが、これはテキストの順番を表す番号(2.32 セクションの 3 番目のカード)で、この順番にテキストの層へと書き込まれていくので、カードを操作する行為は同時にテキストを編集する行為でもあります。

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今回の記事もpostalkで大まかな流れを書きました。ある程度、骨組みができたところでエディタにペーストします。最終的にエディタで書き終えることを意識してカードを貼ることもあれば、カードの操作だけで十分な場合もあります。今回はテキストの層を意識した使い方について書いていきます。

テキストの層とは、使い手が普段ならば見えないはずの存在であり、postalkの外に出たときに現れるもう一つのpostalkでもあります。

テキストの層には私たちは触れることはできません。しかし、意識することで初めてその層があることを知ったときに、間接的に操作することができる。テキストの層という「見えないもの」が、カードの層という「見えるもの」の存在に影響を与えることが可能になります。

新しいものを産むために

今まではパソコンからアクセスした場合の話を書いてきました。では、スマートフォンからアクセスした場合はどうなるのでしょうか?

Image from iOS (1)

postalkはスマートフォンからボードへアクセスするときにチャットのような画面になるのですが、書かれた内容が羅列してあり、動かすことのできない「テキストの層」だけです。

スマートフォンでは「カードの層」が「見えないもの」であり、テキストの層しかありません。つまり、postalkはパソコンとスマートフォンでは、「見えるもの」と「見えないもの」が入れ替わっているのです。

なぜ入れ替わっているのか。それはスマートフォンでカードの層を操作することが難しいという判断をしたことがきっかけでした。もちろん、スマートフォンでは仕事にならないと言いたいわけでもなく、チャットアプリのようにリアルタイムで投稿を追えて、チャットのようなカードの作成に特化したからです。

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もし、postalkで遠隔の打ち合わせをする場合、もしかするとスマートフォンからアクセスしている人がいるかもしれない。そんなとき書かれていることは同じでも「見えるもの」と「見えないもの」が違うかもしれません。

この体験の差異がどのような結果を産むのかはまだわかりませんが、個人的には興味深いことだと感じています。

「見えるもの」と「見えないもの」

この「見えるもの」と「見えないもの」という対比は、東浩紀さんの動物化するポストモダンから引用しました。

印刷されたページを目の前にするとき、私たちは、まず印刷されたテクストを見て、つぎの意味に遡っている。これはつまり、「見えるもの」から「見えないもの」へ遡っているということである。そして逆に自分で文章を書くときにも、意味を具体的な言葉の列に落とす、つまり「見えないものを見えるものに変える」という発想が支配的だ。

ところがウェブの世界はそのように作られていない。そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない。繰り返すが、ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり、ユーザーに見える画面は、それぞれのOSやブラウザ、さらにはモニタやビデオチャップまで含めた環境による「解釈」にすぎない。しかもウェブページはブラウザを通して見なくてもよい。実際にそのソースコード(HTML)は、<h1> などのタグが入ったテクストとして、エディタで簡単に開くことができる。そしてそれもまた、テクストとして表示されているかぎりは、やはり「見えるもの」である。このような意味で、ひとつのウェブページには、見えるものがつねに複数あると言うことができる。

ウェブの世界では、印刷物の世界と異なり、「見えるもの」は複数あり、「見えないもの」の位置も安定しない。したがってそこでは、表現者が見えないものを見るものに変えることで作品を作り、鑑賞者が逆に見えるものから見えないへ遡る、という従来の論理は通用しない。というのも、ウェブの世界では、多少自覚的な鑑賞者ならば、単に見えるもの(画面)を見るだけではなく、ソースコードを開き、見えないものも見えるように変えてしまうからだ。

『動物化するポストモダン』p147

「見えるもの」と「見えないもの」の位置が安定しない。まさにpostalkにおけるカードの層とテキストの層のことです。パソコンとスマートフォンという機器の違いが、ソフトウェアの「見えるもの」と「見えないもの」の関係性を入れ替えてしまう。

むしろ、機器や環境の特性を考えるならば入れ替えてしまったほうがいいわけです。それが「カード型チャットツール」として最大の売りの「カードの層」だったとしてもです。

この「見えるもの」と「見えないもの」を考える上で、もうひとつ重要なテキストがあります。

ぼくたちが導入しようとしている「批評」とは、あるいは「観光客的な知」とは、いまここの見える現実に寄り添う言説でもなければ、いまここの現実を無視した、見えない抽象論を展開する言説でもなく、そのあいだにあるべきものだからである。(一部略)

その中間性を、村人(見えるものだけを見る存在)でもなく、旅人(見えないものを見る存在)でもなく、観光客であることとして表現した。つまりは批評とは、なによりもまず"視覚"の問題なのだ。批評家は、見えるものを分析するだけではいけない(それはジャーナリストや社会学者の仕事だ)。しかし、かといって、見えないものを夢想するだけでもいけない(それはこんどは芸術家の仕事だろう)。批評家は、見えるもののなかに、本来なら見えないはずのものを幻視する、特殊な目をもっていなければならない。

『ゲンロン5 幽霊的身体 - 批評とは幽霊を見ることである』p9

今回のようにテキストの層を意識するだけでカードの層に影響を与えたり、環境の違いによって「見えないもの」が「見えるもの」に入れ替わるのであれば、使い手の体験そのものに影響を与えうる可能性があり、本来ならば見せることはなかったバックヤードのような「見えないもの」が気になってくる。

今、「見えているもの」だけにこだわらず「見えないもの」に目を凝らす、そしてカードの層とは違う、新たな「見えるもの」を開発する日がくるかもしれません。